ある虚言者の記録−10





『神官』



太古の昔、神官は王よりも上にありました。
現在でも、聖職者が最上位に君臨する国家は存在します。

まず、古代の聖職者の話をしましょう。
四大文明の一つであるエジプト文明の大河、ナイル川は、
毎年決まった時期に氾濫し、人々の生活に打撃を与えました。
とはいえ、四大文明が全て大河の流域に存在するように、大河は人々の生活と切っても切り離せないもの。
「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」という言葉があるように、洪水は上流から肥沃な土を運んでくるため、
予め氾濫の時期さえわかっていれば、逆に農業に利用することも可能だったのです。

とはいえ、暦(こよみ)の無い時代には、それはとても難しいことです。
日数を数えようにも、1年が何日なのかがそもそもわかりません。
現在使われている太陽暦ですら、閏年による調整が必要です。
そして、その閏年ですら、1年を何日にすべきかという正確な結論ありきのもの。
ですから、暦を持たない時代の人間が日数を数えようと、あまり意味の無いことなのです。

また、赤道付近では、一年を通して寒暖の差がそれほど無いことから、
気温で災害を予測することは困難です。
つまり、当時の人々には、洪水がいつ来るかはわからなかったのです。

ところが、夜空の星の配列に目をつけた者がいました。
星がある配列になるときに、決まって氾濫が起こることに気付いたのです。
地上から見た星空の変化は、1年で太陽の周りを1周するという地球の公転によるものですから、
赤道直下であっても、星の位置は変わります。
これを応用すれば、太陽暦という正確な暦すら作成可能ということ。
占星術というものは、古代では、れっきとした学問であったのです。
ピラミッドが正確に東西南北を指しているというのは有名な話ですが、それもそのはず。
赤道に近いエジプトや中東では、古代から、占星術が異常なほど発達していたのです。

しかし、洪水が間近に迫っているのがわかったとしても、問題があります。
道理がわからない一般人に、どのようにして伝えるのかという問題です。
当時の技術水準を大幅に超えることですから、一般人ごときに説明したって理解できません。
説明のしようがないのですから、こう言うしかないでしょう。
「神の声を聞いた」と。
これを『預言』といいます。神に預かった言葉なわけですね。
ちなみに、よく似た言葉の『予言』というのもありますが、そちらは神が絡むとは限らないものです。

話を戻しましょう。かくして、信心深い者たちは『預言』に従い、難を逃れました。
神の声の通りにことが起こることによって、神の実在証明になるわけです。
そしてもう1つ、重要なことがあります。彼は確かに神の声を聞いたのです。
ここに、人の身でありながら、神の声を聞ける者が生まれました。
この話が、キリスト教にみられる『ノアの方舟』の原型となったかは定かではありませんけどね。

なお、物事を予知する賢者の話は、世界各地でみることができますが、
後付けの話を除けば、ある程度までは学術的な説明が可能です。
洪水だけではありません。季節性の病気や災害などは、
占星術である程度到来を予知することができますから。

つまるところ、古代の神官とは、優れた学者であったのです。
古代日本においても、農業技術に優れた者が神官階級として崇められたといわれています。
例えば、農薬や肥料などの科学技術が一般的でない時代には、
それを行った結果として作物が良く育っても、まじないにしか見えないでしょうし。
まあ、神に知識を授けられたという説までは否定しませんが。

かくして、たまに神の声が聞こえるという彼は、神官となりました。
神官は平民と同じように働く必要などなく、貢ぎ物だけで裕福な暮らしを送れます。
しかし、いくら優れた学者でも、神のように任意の場所に雷を落とせるわけではありませんから、
信心深くない者たちの世界では、武力を備えた王に武器を突きつけられることになります。
まあ、王などの一部の人間が信心深くないだけという可能性もありますが。
もちろん、信心深くない彼らが、死後の世界でどういう目に遭うかは知りませんけどね。

このようにして、信心深くない者たちの世界では、神官は王を補佐する立場になりました。
王にとっては、自分の言うことさえ聞くのなら、知識を持つ神官はとても役に立ちます。
神官にとっては、武力を持つ王に守られることにより、暴力に弱いという唯一の弱点をカバーできます。
持ちつ持たれつの関係なわけですね。
そして、この王こそは神の子であると、神の声を聞ける神官が宣言します。
これによって、王の武力による支配は、宗教的な正当性を得ることができるのです。

ところが、信心深い者たちの世界では違います。
そういった世界では、物質的に強い力を持つ王ですら、神を、そして神官を恐れます。
こうして、神官が王の上に立つのです。
神官の命令により、神の名の下に、王は神のために戦います。
それは、神の許しを得た暴力。
彼らの進軍は、別の神の軍勢との戦いに敗れる日まで、止まることはないのです。



                    ――ある虚言者の記録


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